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連載”ヘンリー・フォードのアメリカ自動車物語” |
目次(お読みになりたい章をクリックして下さい)
| 第一章 ”デトロイトという町” 第二章 ”何故、デトロイトは車の街になったか?” 第三章 ”アメリカの高速道路”free way” 第四章 ”何故、右側、左側通行になったか?” さて、日本は、何故、左側なのでしょう?(管理人) *ちょっと ブレイクタイム 三大自動車メーカ本社を含む写真 第五章 ”自動車以前の交通機関 −その1−” |
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今、アメリカは、”サンクス ギビング ” ホリデーの4連休中です。。 今、面白い本を読んでいます。 題名は、「ヘンリー フォードのアメリカ自動車物語」です。 著者は、トヨタのアメリカの工場の副社長(日本人)で、アメリカでしか発売してないのですが、日本語で書いてあります。 まだ、読み始めたばかりで、ちょっとずつ読んでます。 日本では発売してないということなので、掲示板を使って、少しずつ紹介していこうと思います。ただ、三日坊主になったら、お許しください。 ということで、第一篇は、 −デトロイトという町ー 地図がある方は、一度、開いて見てください。 デトロイトは、ミシガン州にあります。 ミシガン州は、”右の手のひら”のような形をしており、デトロイトは、ちょうど親指の”つけね”辺りに位置します。 ミシガン州の州都は、デトロイトでなく、デトロイトから北西に車で高速で約一時間の距離にある ランシング とう町です。デトロイトの名前の由来は、フランス語で、ストレート(海峡)の意味から来てます。 北にヒューロン湖、南東にエリー湖に挟まれて、デトロイトがある所は、川のように狭くなっているからです。カナダとの国境の町でもあります。 面白いことに、カナダの隣町 ウィンザー は、デトロイトの南に位置します。緯度は、札幌と函館の間くらいです。 時間は、アメリカの東部時間で、日本と冬は、14時間遅れます。 |
| 歴史に触れてみます。 1702年にフランス知事”キャデラック”という人が、デトロイトに砦を作ったのが、デトロイトの発展の始まりです。その後、キャデラックの名前は、GMの車の名前になり、キャデラック家の家紋が、車のエンブレムになった。 1763年に、フランスとイギリスが戦争し、イギリスが勝ち、権益を得た。 この時、イギリス軍と勇敢に戦ったインディアンの中に、オタワ族の ”ポンティアック酋長” という人がいた。後に、ポンティアックの名は、GM の車の名前になり、オタワは、今のカナダの首都です。 1796年に、アメリカ側の”ウェイン将軍”が、イギリスと戦い、ミシガンをアメリカ合衆国の一部とした。”ウェイン”の名は、デトロイト国際空港の名前の一部になっている。 1813年に、”ペリー提督” が、エリー湖で、イギリス軍を撃退した。 このペリー提督の弟が、1853年に、黒船で浦賀に来航した。 今回は、この辺で、筆をおきます。 面白かったですか? もし、反響が良ければ、続けることにしましょう、、、、、 まあ、良くなくても、自己満足で書こうかな、、、、 次回の予告, −何故、デトロイトは、車の町になったか?− タイトルは、面白いでしょ? |
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お待たせしました(待ってない?)! ”ヘンリーフォードのアメリカ自動車物語”の第2編です。今回のテーマは、”何故、デトロイトは車の街になったか?” です。 デトロイトは、車の”ビッグ3”と呼ばれる GM, Ford, Chrysler の本社や工場があります。 何故、冬は、こんなに寒いデトロイトが、車の街になったか、私も長い間、不思議に思ってました。今、解明しましょう! 理由は、5 プラス1 あります。 第一に、資本(お金) デトロイトがあるミシガン州は、森林に恵まれ(紅葉が素晴らしい!)、材木成金が沢山いた。 また、ミシガン州の近くで石油が沢山採れ、石油会社が、ガソリンを売るため、自動車の製造、販売を援助した。 第二に、資源(材料) ミシガンは、銅、鉄、鉛の資源が豊富。 1880年までは、銅生産高は、世界一だった。 第三に、人 19世紀末で、デトロイトの人口は、10万人。 ヨーロッパからの移民はNYに着き、多くの人が五大湖を船でデトロイトに着いた。 第四に、運送 五大湖を原材料や完成した自動車を船で運ぶことができた。 特に、エリー湖とアルバニ(今のニューヨーク州の州都)を結ぶエリー運河が開通したことにより、五大湖とニューヨークが川でつながった。 第五に、技術 五大湖を利用した造船技術が発達していた。 船に載せる蒸気機関エンジンの技術があった。 また、自転車の生産も発達しており、自転車のチェーン、タイヤ、ベアリングの技術は、自動車に応用できた。 また、豊富な材木を利用して、馬車の製作も盛んだった。 |
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もう一つ(プラス1)は、 Henry Fordが、大都会が嫌いで、デトロイトを離れなかった。 以上が、主な理由です。 ちなみに、何故、豊田市が、車の街になったか? ご存知ですか?残念ながら、今、答えられませんが、ちょっと由来を紹介します。 元祖は、豊田(”とよだ ”とにごる)佐吉が、自動織機を発明し、今の豊田(とよだ)織機(株)になった。 子供の豊田喜一郎が、トヨタ自動車を作った。ここで、名前を”とよだ ”から、”とよた ”と変えた。 工場の場所は、挙母(ころも)町に作った。 その後、豊田(とよた)市に改名された。 話は、脱線しますが、今の”(株)デンソー”は、1949年に、トヨタ自動車から分離独立した。分離当時、名前を”豊田電装”と付けたかったが、トヨタに許されず、しかたなく、”日本電装(株)”(今は、”デンソー”)とした。 次回は、”アメリカの道路事情”についてトライしたい。 乞うご期待を! |
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新年 あけまして おめでとうございます! 同窓会の皆さん、お正月はいかがお過ごしでしたか? 私は、今回の年末年始は、日本で過ごしました。 日本は、とても寒かったせいか、 ミシガンに戻っても、寒さがあまり気になりません。 ”ヘンリー・フォードのアメリカ自動車物語”の新年の最初のテーマは、「アメリカの高速道路”free way”」です。 アメリカでの高速道路は、3種類あり、一般国道(例、US 30)と 州をまたがる Inter States Freeway (例、�T-75)、(とても安いですが)有料のToll Road があります。 ここでは、 Inter States Freeway について、説明します。 Inter States Freeway は、実に便利な高速道路です。まず、料金はタダです。 だから free(タダ) way と呼ばれるかと思ったら、そうでなく、信号がない(free)という意味が名前の由来です。アメリカ大陸を縦横に伸びており、規則正しく道路番号や標識が作られており、慣れない土地でも、迷うことなく、旅行できます。 制限速度は、場所により異なりますが、ミシガン州では、最高が70マイル(約110Km/hr)ですが、大体80マイル(約130Km/hr)で流れてます。走行レーンの幅は、約3.6mあり、片側、最低2レーンあり、市街地では、4,5レーンあります。 また、郊外では、中央分離帯が広く、場所により、数百mあり、名古屋の100m道路の比ではありません。とても、壮大です。 道路番号は、規則正しく、次のように付けられています。 基本的に二桁の番号です。大陸を南北に縦断する道路が奇数で、東西に横断する道路が偶数です。 |
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例えば、�T-80は、ニューヨーク(東海岸)から、サンフランシスコ(西海岸)まで横断しており、�T-75は、(カナダに接する)ミシガン州から、フロリダ州のカリブ海(マイアミビーチ)まで、縦断してます。 また、基幹道路のバイパス道路は、3桁の番号です。 例えば、�T-75のバイパスは、�T-275となります。 したがって、�T-75の入り口は、北方面か、南方面の2種類しかありません。この簡単なルールは、実際に車で見知らぬ土地を旅すると便利さを痛感することができます。 free wayの維持費は、基本的には、ガソリン税で賄われています。 でも、ガソリン税は、日本のほぼ半額です。 ガソリン代も日本の1/2から1/3、ホテル(モーテル)も安い(家族で泊まっても、一部屋分しか料金を取らない)ので、長期の家族旅行も安上がりです。 ここで、ちょっと話題を変えて、有名な ”ルート66” の由来について、述べます。”ルート66”は、free wayではなく一般道ですが、世界的に有名で、"Route 66"の看板がよく盗まれるそうです(私も欲しい!)。 シカゴを起点にして、ロサンゼルスのサンタモニカの海岸までの道が、”ルート66”です。今では、”ルート66”という番号はなく、場所により違う番号になってます。 日本の”東海道”や”中仙道”のようなものかな? 以上が、今回のお話です。是非、一度、アメリカに来て、”free way”の 便利さ と 壮大さ を味わってください! 次回は、道路編の第2弾として、 ”何故、右側、左側通行になったか?” です。 車は、日本(イギリスなど)では、左側通行、アメリカなどでは、右側通行。 これは、不思議ですよね! とても面白い歴史(理由)があるのですよ! 乞うご期待!! |
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![]() レコードジャケットに見つけた馬車の「左側通行」の画像 (ドイツ・オーストリーの絵画と思われる:なぜ「右側通行」で書かなかったのか) |
ミシガンは、昨夜は雪で、朝は、銀世界でした。 同窓生の皆さんの熱い?声援に支えられ、連載”ヘンリー・フォードのアメリカ自動車物語” の第4編を書きます。今回のテーマは、”何故、右側、左側通行になったか?” です。 車の通行方向は、日本では、左側、アメリカでは右側です。世界に目を向けてみると、イギリス、オーストラリアなどは、左側、 ヨーロッパの国々は右側です。 人口の割合で言うと、左側が19億人、右側が36億人で、約1:2です。何故、分かれてしまったのでしょう? 不思議でしょ? これには、きちんとした歴史、理由があるのです。 歴史にしたがって、説明します。 1.ローマ帝国時代 兵士が戦車(映画”ベンハー”で出てくるような馬車)に乗って、左手に手綱を、右手に剣を持ち、走った。前方から向かってくる敵と戦うには、道路の左側を走った方が、右手の剣で敵を倒し易い。したっがて、左側通行が始まり、その後、左側通行がヨーロッパの標準となった。(今と反対です) 2.フランス革命(1789年) 革命が起こり、パリから貴族が逃げる際、道路の左側を猛スピードで馬車を走らせた。そのため、一般庶民は、危険を避けるため、道路の反対側、即ち、右側を通行するようになった。 3.ナポレオン時代 ナポレオンは、庶民の味方であることをアピールするため、フランスでは軍隊の馬車を庶民と同じ右側を通行させた。ナポレオンは、他国を侵略し、征服した国でも、右側通行させた。 4.第一次世界大戦 ヨーロッパ全体が戦場となった大戦では、国毎に、通行方向がまちまちだったため、大変混乱した。戦後、戦勝国であるフランス(右側)に統一された。 ただ、同じ戦勝国であったイギリスは、ナポレオンの影響を嫌い、左側を選んだ。イギリス国民は、昔、ネルソン提督がナポレオンに”トラファルガーの戦い”で勝ったこと今でも誇りにしている。ロンドンのトラファルガー広場には、立派なネルソン提督の銅像が真ん中に高く、そびえている。 |
| 5.世界の(通行方向の)地図 大英帝国の国々(オーストラリア、インドなど)は、イギリスにならって左側通行になった。アメリカは、イギリスとの独立戦争時代、フランスの援助を受けたため、フランスと同じ右側になった。アメリカの独立を祝って、フランスが”自由の女神”をアメリカに贈ったほど、当時、両国は仲が良かった。 カナダは、大英帝国の一員だったが、アメリカと接しているため、便利さを優先し、イギリスでなくアメリカの右側に合わせた。 さて、日本は、何故、左側なのでしょう?このことは、本に書いてありません。 私が想像するに、昔は、日英同盟を結ぶほど、日本はイギリスと仲が良かったため、イギリスに合わせえたのでは?もし、今(小泉政権)なら、間違いなく、アメリカに合わせて、右側通行だったでしょうね。本当の理由を知っている方あれば、教えてください!以上が、通行方向の話です。 話は代わって、車のハンドルの位置にも面白い歴史があるのですよ。アメリカで道路の通行方向が右側であっても、最初の車のハンドルは右にあったのです。理由は、馬車の時代、御者は、左手に手綱、右手に鞭を持った。 馬は馬車の真ん中に居るので、左手で手綱を馬車の真ん中で持つには、御者は右側に座る必要があったのです。したがって、その後、馬車から自動車になっても、初めは、ドライバは右側、即ち、ハンドルも右側だったのです。ドライバが右側だと、道路の脇に駐車して乗り降りする際には、ドライバにとっては、とても便利だったのです。 その後、車のスピードが上がり、追い越す時に、ドライバはセンターライン側に座った方が安全であると理由で、現在の左ハンドルになった。 どうでしたか? ”目からウロコ”が落ちましたか? 次回のテーマは、第5編 ”自動車以前の交通機関”という話題で、頑張りたいと思います。 アメリカ大陸は、昔の人にとっては、とんでもなく広く、西部開拓とともに交通機関も発達してきた。 乞う、ご期待!! |
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![]() 広重 「東海道五十三次」 京都三条大橋(部分) 画面をルーペで見る限り「右側通行」のように見える? よって「右側通行」という説も |
Seanさんいつも「目からウロコ」の話ありがとうございます。今回も大変興味深い内容の話で楽しく読ませ て頂きました。 これだけの力作、掲示板だけの掲載ではもったいなく思います。なるべく早い内に(時間の許す範囲ということで)ホームページ上に掲載をさせ て頂きます。そうすれば後々色々な方に読んで頂けるのではと思います。 Seanさんの「日本の本当の理由を知っている方あれば、教えてください!」ネット上で探して見ました。下記のような内容の文面を見つけました。 道 路交通に関する条約には、道路の通行する側は「それぞれの国において、すべての道路について統一されていなければならない」とされているが、世界には我が 国やイギリスのように自動車等が左側を通行している国とアメリカやヨーロッパ大陸諸国のように右側通行を実施している国があることはご承知のとおりであ る。 我が国の場合、明治以前には特別な定めがなく人々は自由に通行していたが、明治33年6月警視庁令第二十号をもって「道路取締規則」が制定 され左側通行制度が採用された。 左側を通行することとしたのは、昔から武士は左腰に大小をさしていたので、右側を通ると刀の小尻がふれ合うし、左側からの 攻撃に対しておくれをとるため自然に左側を通行する習慣がついていたという説があり、また道路取締規則より前の明治22年に制定された人力車営業取締規則 に、馬車が行き合うときは互いに左側に避けることとなっていたことなどを参考にして決定したと伝えられている。 そして、大正9年12月16日に内務省が 「道路取締令」を制定して全国的に人も車も左側通行が行われることとなり、半世紀にわたって実施された。 |
| ところが昭和20年の終戦後、一部の府 県で占領軍現地司令官の命令により「対面交通」が実施され、また総司令部からも交通安全のため「対面交通を実施してはどうか」との示唆があって検討した結 果、車の通行区分の変更には既存の施設の改善、資機材の調達等に多額の経費を要することから車は従来どおり左、人は右の対面交通を実施することに決定し た。 このため、昭和24年5月道路交通取締法が一部改正され「道路を通行する歩行者は右側に、車馬は左側によらなければならない」(第三条)と規定、明治 以来の左側通行が変更されることとなった。そして約半年間の訓練期間を経て同年11月1日から全国一斉に実施された。 また沖縄県では、戦後三十余年にわ たって「人は左、車は右」の通行方法が行われていたが、一国一交通方法の条約遵守の立場から昭和53年7月30日を期して変更、本土と同一とした。 なお、 アメリカ等ではかつて多頭立ての馬車の馭者が長い鞭を振る場合に、左側通行だと対向車に当たる虞があるため右側通行にしたと言われているが、これらについ ては「人と車」誌58年2月号「左−右、なぜ運転ルールは違うか」を参照されたい。 ところで、自動車のハンドルは最近では左側通行国では右ハン ドル、右側通行国では左ハンドル車が多いが、昔は必ずしもそうではなく、道路通行区分にかかわらず、自動車の中央か右側についていたようである。 1908 年のニューヨークとカナダのモーターショーに展示された83台のアメリカ車はすべて右ハンドルであったと伝えられる。その後、乗客の乗降の便利さ、追い越 しの際の危険防止、また当時の車のギアチェンジレバーが右側にあったため左ハンドルの方が経費削減になった等の理由から右側通行国では左ハンドル車が増加 し、フォードT型車も左ハンドルを採用したとのことです。 まだまだ色々な所見が有るかと思いますが。 ではSeanさん第5編 ”自動車以前の交通機関”楽しみにしています。 |
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連載”ヘンリー・フォードのアメリカ自動車物語”
ちょっとブレイクタイム
| Seanさんは先月末からミネソタ州のBemidji(べミヂ)をかわきりに自動車・寒冷地試験の仕事に着手。掲示板を通じて詳しい報告をしてくれましたが、本日3月11日ミシガンより数枚の写真が送られて来ました。 同窓生皆さんもおなじみのアメリカの三大自動車メーカ本社を含めた5枚の写真です。 Seanさん最近一眼レフデジカメを購入されたようで、是非このページ内に掲載をして欲しいとの要望がありました。若干解像度は落としていますが、やはり一眼レフの解像度は素晴らしいものがあります。アメリカの空気の澄んだ雰囲気が伝わって来る写真お楽しみ下さい。 実は私も数年前に「ニコン」の一眼レフデジカメを購入、現在も一番の愛用カメラとして活躍をしています。ここ数年カメラもデジカメが支流、ニコンもフィルムカメラの開発を止めるとか? 少しばかり寂しいような気はしますが・・・でも便利ですよね。 |
| クライスラー本社 | フォード本社 | GM本社 | ヘンリーフォード ミュージアム |
Seanさん愛車 |
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![]() ポニー・エクスプレスの銅像
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しばらくサボっていたので、同窓生の皆さんに、忘れらてしまったのでは?と心配になり、やっと ”ヘンリーフォードのアメリカ自動車物語”の続編を書きます。 今回のテーマは、”自動車以前の交通機関 −その1−” という話題に挑戦したいと思います。 ヘンリーフォードは、自動車を一般大衆のものにした。 では、それ以前では、アメリカ大陸では、どんな交通機関が存在したのでしょう? 1.飛脚 飛脚は、日本の江戸時代だけかと思ったら、なんとアメリカ大陸でも存在してたのです。”ポニーエキスプレス”と呼ばれており、ミズーリ州からカリフォルニア州のサンフランシスコまでの 2000マイル(3200キロ)を、夏は、10日、冬は12〜16日かけて、馬で走りました。 しかし、1861年に電報設備が建設され、”ポニーエキスプレス”は、たった一年で廃業になった。 2.馬車 19世紀の半ばから、終わりにかけて、馬車が活躍した。 一般に、4頭立てで、一日に20マイル(32キロ)が走行距離だった。したがって、街道沿いには、約20マイル毎に、”旅籠”があった。 町の中では、レールの上を走る馬車があったが、急な坂が多いサンフランシスコでは、ブレーキが効かなくなり、暴走する事故が多発した。その結果、サンフランシスコでは、急な坂でも安全は”ケーブルカー”ができたのです。 |
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| 3.船 昔、教科書で、「1807年に、”フルトン”がアメリカで最初の蒸気船を航行させた!」と教わったはずです。 しかし、実際には、それ以前に、”ジョン フィッチ”という人が、デラウェア川で、蒸気船を航行させている。ただ、時速8マイルで、堤防の上を走る馬車に負けるスピードだったため、商業的に失敗し、自殺してしまった。 では、何故、フルトンは成功したのでしょう?それは、スコットランド人の”ジェームス ワット”によって作製された高性能エンジンを搭載したため、”ジョン フィッチ”の蒸気船の3倍のスピードで航行できたからです。 そして、ニューヨーク市とアルバニー市(今のNY州の州都)間を航行する独占使用権を獲得した。 ところで、1848年に、カリフォルニアで金が発見され、いわゆる”ゴールドラッシュ”になった。一攫千金を狙った、ヨーロッパやアメリカの東部から西部に多くの人が押し寄せた。 1849年に、どっと西部に押し寄せた人々を”フォーティ ナイナー(49)”と呼ばれました。 ”フォーティ ナイナー”は、アメフトの強いチーム名になってます。 そこで、当時、とてつもなく広いアメリカ大陸を横断するのに、どんな交通機関が利用されたのでしょう。それは、主に 3つの方法 があった。 1.上流階級; 船で南米回り 2.中流階級; パナマ(今は、パナマ運河がある)を馬車で渡り、それ以外は、船 3.下流階級; 馬車で大陸横断 以上が、今回のテーマです。どうでしたか? 次回のテーマは、”自動車以前の交通機関 −その2−” という話題で、頑張りたいと思います。 自転車、汽車の発達の歴史に触れてみたいと思います。汽車のレールの巾には、とても深い歴史があるのですよ! 乞う、ご期待!! |
![]() ロバート・フルトン蒸気船イラスト ホットワイアードジャパン 「米国を発展させてきた「革新者」列伝より」 |
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